白河口の戦い(しらかわぐちのたたかい)は、会津戦争(戊辰戦争)における戦いの1つ。戊辰戦争の戦局に大きな影響を与えた。
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慶応4年4月から7月(1868年6月から8月)にかけて、南東北の要地白河城をめぐり、列藩同盟軍(北部政府軍)(会津藩、仙台藩、棚倉藩など)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩)が戦った。仙台藩が奥羽鎮撫総督府の九条道孝総督に提出した会津藩寛典処分嘆願書等を総督府を事実上支配する長州藩の下参謀、世良修蔵が却下すると、仙台藩は世良修蔵を福島で捕縛して処刑し、さらに岩沼に出兵して九条総督、および醍醐副総督の身柄を確保し、仙台城下の重臣の屋敷に軟禁した。また、仙台藩と会津藩を主力とする北部政府軍は世良修蔵を処刑した同日、白河城を攻撃して新政府軍から白河城を奪い取った。ここに、「東北戦争」が勃発した。しかし、新政府軍は白河城を奪還し、同盟軍は7回にわたって奪回作戦を行ったが、イギリスを後ろ盾としイギリスから最新式の銃器を購入していた新政府軍は、劣勢な兵数で白河城を守りきった。
白河は奥州街道沿いの要地であった。ここは白河藩の領地に当たるのだが、慶応2年(1866年)に藩主が転封され二本松藩預かりの地となっていて藩主不在の状態であった。白河小峰城は1627年に丹羽長重によって改築された城で、仙台藩をはじめとする東北諸藩を仮想敵として設計されていたため、南方は比較的手薄となっていた。
慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)、二本松藩兵が守備していた白河城へ会津兵が侵攻しこれを占領した。会津藩兵(青龍隊等)と新選組(土方歳三が負傷により戦列を離れていたため山口二郎(斎藤一)が指揮)は、手薄な白河城南方の防備を固めるため、白坂口と棚倉口の小山や丘に兵を入れて防御態勢をとっていた。
参謀伊地知正治、部隊長野津鎮雄、川村純義の率いる新政府東山道軍は宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点として確保していた。新政府軍は、薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で形成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。25日払暁に新政府軍は白坂口へ奇襲をかけたが会津藩兵はこれを迎撃。新政府軍は長雨でぬかるんだ田地に足をとられ、行軍の疲労や土地勘の無さも重なり損害を出して芦野へ撤退した。
翌26日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同横山主税が白河城に入場した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。山口二郎や純義隊の宮川六郎らは白坂口の防衛を献策したが、西郷頼母は「兵力で勝っており不要である」として却下した。新政府軍は宇都宮城の土佐藩兵に協力を仰ぎ、東山道軍に薩摩藩の他の部隊を合流させ増員した。兵力は新政府軍が約700名、旧幕府軍が2,000から2,500名であった。新政府軍は29日に白坂口へ本陣を置き、5月1日に白河城の攻略にかかった。
新政府軍の白河城攻略
5月1日、新政府軍は兵力を3つに分け、本体は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して旧幕府軍を包囲、退路を立ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本体が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、旧幕府軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 - 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた旧幕府軍副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷頼母は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。
こうして手薄になった立石山と雷神山へ、新政府軍別動の2部隊が侵攻して占拠した。これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、さらに兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山主税をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出したが、新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。
列藩同盟軍の反撃
この頃新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため、白河城へ増援する余裕が無く、黒川藩によってわずかに兵力を増強できたに過ぎなかった。一方、列藩同盟軍も連携が悪く兵力の集結や総攻撃の決断ができずに、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。こういった状況の中、仙台藩士細谷直英(十太夫)は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成し、黒装束に身を包んで長脇差で夜襲攻撃を繰り返した。衝撃隊は新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。
5月26日、旧幕府軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に旧幕府軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。旧幕府軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや5月15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余力が生じ、板垣退助率いる土佐藩兵や、江戸の薩摩藩兵を白河城へ増援できるようになった。旧幕府軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが、失敗に終わった。
戦闘終結
6月24日、兵力を増強した新政府軍は板垣退助が棚倉城攻略のため800の兵を率いて出発した。棚倉藩は白河の東に位置し新政府軍が会津へ侵攻する際の後背に位置するため、確保する必要があったからである。新政府軍の動きを旧幕府軍は予期していたが、むしろ白河城奪還の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して棚倉藩は降伏した。6月25日、旧幕府軍は予定通り白河城へ攻撃をかけたが失敗に終わった。さらに7月1日の攻撃にも失敗し、7月2日、西郷頼母が総督を罷免され、後任として内藤介右衛門がその任に就いた。
7月8日、庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが奥羽越列藩同盟から離反したとの報が入ったため、派遣を取りやめ同部隊を新庄藩攻撃の任にあてた。
旧幕府軍の白河城への攻撃は7月14日が最後となった。以降、周辺地域で戦闘が続いたが、劣勢となった旧幕府軍は白河方面から撤退し、これによって白河口の戦いは終結した。
影響
7月28日、29日に新政府軍は本宮へと進軍し、旧幕府軍は迎撃にあたったが打ち破られて敗走した。また27日に奥羽越列藩同盟から、本宮の陥落で進退窮まった三春藩が新政府へ降伏し、これにより29日に新政府軍の別働隊が二本松城を攻撃した。二本松藩兵の多くが白河口へ出兵していたこともあり二本松城は落城した(二本松の戦い)。
白河口の戦いで新政府軍を率いた伊地知正治は、兵力劣勢ながら果敢な指揮をもって戦いを優勢に進めた。一方旧幕府軍はリーダーシップを欠き、当初持っていた優勢な兵力を生かしきれずいたずらに損害を重ねた。白河口での敗北によって旧幕府軍は勝機を失い、会津戦争の大勢は決した。